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あらゆる物事をM視点で語るブログ

日々妄想

オナニーが紡いだ栄光への架け橋

今やアイドルの枠を越え、国民的なスターである木村拓哉。彼のブレイクのきっかけはなんであろうか。ドラマで見ていけば『あすなろ白書』や『若者のすべて』辺りになるのだろうか。確かに、あすなろ白書のキムタクは競演俳優と比べても別格で格好良かった。歌手SMAPで考えるならば『青いイナズマ』か。『夢がMORIMORI』というバラエティー番組も忘れてはならないだろう。
ただ、木村拓哉が木村拓哉という特別なアイコンになったきっかけはこのどれでもないと私は思っていて。
キムタクの栄光はとあるバラエティー番組で、糸井重里や大槻ケンジ辺りとアイドルなのにオナニーの話しをしたときに始まったのではないのかなと。あれはまさしく革命的だった。
考えてみると、今のアイドルはオナニーの話ししないね。木村拓哉が空けた風穴を利用しようとは思わないのだろうか。キムタクのようになりたいと思うならば、ドラマやバラエティー番組に出るだけでは足りない。オナニーの話しをするべき。何だったら先人を越えるべく乳首オナニーやアナルオナニーの話しもするべき。

M男的には正しい日本語表現

虫歯が痛い。
と書く。
何だか違和感がある。しっくりこないというか、腑に落ちないというか。
なので、
虫歯が痛む。
と書き直す。
今度はしっくりくる。
虫歯が痛い。
虫歯が痛む。
日本語としてどちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか、どちらも正しいのか、学がないのでよく分からない。ただ、自分の肌感覚としては虫歯が痛むの方が書いてて腑に落ちる。なので、そちらを選ぶ。

で、次の例なのですが、
勃起が収まらない。
勃起が止まらない。
これはおそらく、勃起が収まらないが正解なんですよね。でも、私の肌感覚としては勃起が止まらないの方こそが正しいのです。
男ならわかると思うのですが、我々はちんこを沢山持っているわけじゃないですか。肉体的にはちんこは一つだけど、心中には多くのちんこを持っているわけです。それがエロに遭遇した時、種子が開き花が咲乱れるように、身体の、そして、心のちんこが次々と勃起していく感覚は、止まらないという表現がふさわしい!
できることならペニバンを身に付けた女性にもこの止まらない感覚を味わってほしいものです。あるいは、味わってもらえるような魅力的なM男でありたいものです。
ただ、
勃起が収まる。
勃起が止まる。
だと、収まるが正しく感じてしまうのですけどね。

それと、勃起は砕けない
という気概を持つ時ありますよね。CBTプレイ等で酷い目にあっても、俺の勃起は砕けねえぜ的な。

女性DJフェチ

私は激しい音楽を鳴らす女性アーティストに(性的な意味で)興奮する性質なのですが、そういった意味ではDJsodaちゃんはドストライクですね。
動画みると、皆さんスマホでの撮影に夢中で全く踊ってないのがいっそ清々しい。


つまみをいじる手つきがエロい。


日本にも勿論素敵な女性DJは沢山います。私が好きなのはリカックスさん。というか、DJsodaちゃんと同じジャンルに入れてしまうと怒られてしまうかも。彼女は素の声が低いのがいいんですよね。弟子入りしてめっちゃしごかれたい。


ハスキーボイス


不勉強で知らなかったけど、kyokaさんも格好いいですね。

素晴らしき世界

最近のコンビニのトイレ、水量絞り過ぎじゃありません?チョロチョロしか出なくてもどかしくて仕方ない。
新人女王様の初めての聖水プレイかよっていう。

 というネタをTwitterに投稿しまして。
 自分で自分のネタに大爆笑ですよ。これは、バズられてしまうぞと。通知が止まんねーってなるやつだと。
 …勿論、そんな事にはなりませんでしたけどね。そりゃそうです。冷静になってみれば大したネタじゃないし、そもそも『聖水』なんて表現、世間にどこまで広まっているのか知れたものじゃないですしね。聖水<やばたにえんであってもおかしくないわけで。
 まあ、浸透度はどうあれ女王様の尿を聖水と言い換えるセンス、好きです。飲んだことないですけど。
 聖水。いいですね。あれはやはり神聖なるものですから。
 聖。ものの辞書によると「~ほかのいかなるものをもこえたその絶対性、特に万物の規範としてのその完全性をさす。~」とあります。ちなみに都合のいいところだけ引用してますよ。
 それはさておき、聖とは絶対であり、完全であるわけですよ。聖水もまた然りで。聖水とは絶対かつ完全な飲み物なわけです。
 ところで、私は聖水を飲む機会があったら直飲みを希望したいと思っていました。空気に触れる時間が長ければ長いほど、汚れていくようなイメージが何故かあったのですよね。グラスに入れて楽しむ方もいるようですが、あんなものはもっての他です。
 ですが、私は間違っていました。聖水は空気に触れた程度で汚れるわけがないのです。絶対であり、完全なものですから。
 絶対で完全な聖水は当然どこまでいっても聖水である。トイレに出されても聖水に他ならない。それどころか聖水に触れたトイレ水も聖水に変わる。伊集院光さんはかつて「ミネラルウォーターに1滴の便所水が入ったらそれはもう便所水である」と言ったが、その逆です。
 聖水はトイレ水程度に犯されはしない。絶対で完全なのだから。
トイレの水はマンホールの中にある汚水管に集められる。だが、どれだけ集めようが聖水は揺らぎもしない。何故なら絶対(略)だから。というより、集められた汚水も聖水に変わる。最早、聖水管です。
 汚水管に集められた汚水は最終的に下水処理場に行き濾過され海に流される。勿論、聖水は濾過などされない。そのまま海に流される。そして、海は聖水になる。その海にいるプランクトンを食べる魚は聖水を体内に宿す。その魚は水揚げされ、我々の食卓に…。
 って、あれ?我々は楽園に住んでいるのではないか?ここは聖に満たされた聖なる世界なのではないか。
 …まあ、まず『聖水』という言い換え表現を認めないと楽園は立ち上がらないのですけどね。あと色々頑張れば、まあね…。世界は楽園になりうるのかも。

受け継がれる魂

 今の10代20代位の方は汲み取り式のトイレを使用したことがあるのだろうか。ふと気になったので検索してみたところおよそ30%の方が使用したことがないという調査結果が出てきました。
 くみ取り式トイレ(ボットン便所)を使ったことがない人を調査!20代は3割が未体験
 意外と多いなという感想です。私はむしろ70%位の方が使用したことがないと思っていました。皆さん登山やキャンプ等で自然豊かな場所に行った時に遭遇したりしているのかな。あるいは野外音楽フェス等での仮設トイレか。
 私も勿論使用したことあります。祖父の家が汲み取り式トイレでしたからね。子供の頃は長い休みのだびに遊びに行ってましたから、結構な回数使っていたはずです。
 いや、嫌でしたね。何回使っても慣れなかった。祖父も祖母も祖父の家も大好きでしたけど、トイレだけがとにかく嫌だった。
 建てつけが悪く開け閉めするだびに不気味な音が鳴る扉。ところどころが欠けた古びた赤茶けたタイルの床。手触りが何とも気持ちの悪い土壁。そして、ぽっかりと口をあけた和式トイレ。その口を覗くと暗闇が広がっていて。
 落ち着かない、尻の据わりが悪い感覚。
 何かがいる、というより、何かがある、そんな実感もあって。
 居心地が悪い。
 そこは楽しい場所である祖父の家ではない、別の場所だと思っていた気がします。
 きっと子供の頃の私にとって祖父の家のトイレは異界だったのでしょう。いいえ、今の私にとってすら異界であるように思います。
 そして「別の場所」であるという感覚はやはり、汲み取り式トイレだからこそ覚えるものであるように思います。どんな辺鄙な場所、不気味な場所であろうと、そこが水洗トイレであったら異界感は薄れてしまうのではないでしょうか。少し前に「トイレの神様」という曲が流行りましたが、トイレに神様がいるという発想は汲み取り式トイレならではな気がします。水洗トイレには神様はいないね。
 では何故、汲み取り式トイレには異界感があって、水洗トイレにはそれがないのか。わからないとしか言いようがありません。やはりあの穴が鍵なのでしょうか。
 とはいえ、実感として誰もが感じるはずです。汲み取り式トイレにはあり水洗トイレにはないと。
 トイレの水洗化によって神は死に、異界は消え去った。代わりに我々は「ここではないどこか」ではなく「ここである」という、言い換えれば居心地のよさを得たわけだ。そこでは本も読めるし、何だったら食事すらできる。
 そうなると贅沢なもので、汲み取り式トイレという異界が懐かしく思えてきたりもします。祖父の家の汲み取り式トイレ。もうありませんが。
 汲み取り式トイレはいずれなくなるのでしょう。もう戻れはしない。
 ならばせめてその魂は受け継ごうではないか。
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makoto139

Author:makoto139
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